

KP会の筒井さんからリレーを受けました、黒川真介です。
日頃は至らぬ事務局にさまざまなお力添えを賜り、厚く御礼申し上げます。
私は、SFC(湘南藤沢キャンパス)総合政策学部が開設2年目の年に入学しました。当時は人気が異常に高く(偏差値が70超)、本命にしづらい学部でしたが、気軽に受けてみたところ合格しありがたく進学した次第です。
学部長は加藤寛先生、併設の環境情報学部長は昨年ご逝去された相磯秀夫先生、ほか村井純先生、竹中平蔵先生、冨田勝先生と、そうそうたる教授陣が揃い、どの講義も刺激に満ちていました。SFC創設メンバーの熱量は凄まじく、その熱気に呼応する塾生も熱く、地方出身の私はしばしば気圧されていました。
その中でもどうしても履修したかったのが梅垣先生(国際政治学)の講義でした。とても人気で、履修の競争倍率が高い中、「アジア言語を履修すれば優先されるらしい」という噂を信じ、韓国語を選択。おかげ?で国際政治学は無事希望通り履修できたのでした。一方の語学についても動機は不純ながら真面目に取り組み、ソウル大で1か月間の語学研修にも参加しました。当時は朝鮮総督府庁舎が解体される前で、日本の音楽CDは輸入禁止だった時代。アシスタントについていただいた大学院生が、なぜか五輪真弓の『恋人よ』をいつもうたっていた理由は最後までわかりませんでしたが、不思議な空気感も含め今思えば隔世の感があります。
当時流行していた「写るんです パノラマ」で撮った朝鮮総督府庁舎
朝鮮総督府庁舎は非常に大きな建物でした
SFCには最寄りの小田急湘南台駅からさらにバスに揺られて通いました。当然キャンパスは新しく、デザインも洗練されていましたが、周りは「藤沢市遠藤」という牧歌的なエリアでした。近隣の牧場の匂いもあいまって、
世間一般のイメージする「湘南」とは似ても似つかぬ環境でしたが、不便ながらも草創期ならではの楽しさがありました。伝統が一切存在しないからこそ、行動のひとつひとつが「歴史の1ページ」となり得る。そのワクワク感の中で、私はイベント企画サークルに入り、「学祭」やさまざまなイベントに挑戦しました。
キャンパスにて 左端が私
現在のSFCで定着している「七夕祭」は、地域との交流が特徴ですが、そのエッセンスは私が関わっていた頃から大切にしていたものでした。手探りで毎晩議論を重ねたことは懐かしい思い出です。
また、三田のラーメン二郎にならって藤沢周辺の「塾生御用達の店」開拓にも励みました。厚木には食肉センターがあり、近隣には安くて美味しい焼肉屋やホルモン焼き屋が多数ありましたが、いずれもトタン小屋×コップ酒×ガテン系常連といったイメージ。しかし、ジャズ×ギネスビール×炭火七輪というギャップが魅力の「三五郎」という店に出会いました。それ以来、仲間と集まる場所はいつも三五郎でした。
マスターがご逝去され、店はなくなってしまいましたが、あの味を忘れられない私たち“チーム三五郎”は、マスターがかつて修行されたという本厚木の店に赴き、懐かしい味を思い出しながら同窓会を続けています。
ここでひとつ懺悔を。当時、卒業式後に新高輪プリンスホテルでパーティを行うのが伝統行事でしたが、私たちの代以降、会場が変更となりました。真偽は定かではありませんが、私たちの代が羽目を外しすぎたことも理由の一つと言われています。周囲のSFC組も勢いよく楽しんでおり、確かに原因の一つだったことは否めません。やりすぎました。
さて、卒業単位を計画的に履修できていたおかげで4年生の後期は、ほぼ講義の受講は無く、卒業旅行の資金作りのため近所の外科医のお手伝いをしていました。そのご縁で学会発表の準備を手伝わせていただいたり、医師仲間を訪ねて返還前の香港へ同行させていただいたりと、学生としては貴重な体験を積むことができました。
下宿を早々に引き上げようと、父とトラックで高知を出発したのは阪神・淡路大震災の二日後(今思えばなかなか無茶な行程でした)。その後、卒業式のために再度上京した頃には地下鉄サリン事件が起きたばかりで、大きなバッグとビニール傘を持って乗った地下鉄で冷たい視線を浴びたことを覚えています。
すでにバブルは崩壊し、社会が大きな事件の連続に揺れ混とんとした時代。そんな時代の中で私は地元高知へ戻り、現在の入交グループ本社㈱に入社しました。以来、「永遠の若手」として土佐三田会事務局を務め、今年で31年目を迎えようとしています。世界は激変しましたが私は相変わらず事務局にいます。気づけば一番変わっていないのが自分でした。
駄文長文はこのあたりとしまして、つぎは四国銀行の中岡さんにお願いします。
