中嶋 淳介(なかじま じゅんすけ)さん(1994年文卒)

高知放送報道制作部の後輩、石黒大地さんからバトンを引き継ぎました。

私は1970年12月生まれの、いの町出身です。高知学芸中学高校時代は悪友達と遊びに没頭しすぎ浪人生活へ直行。父が慶大出身であり親しみがあったことや文章を書く仕事をしたいと思ったことから慶大文学部を志望し、1990年に入学しました。当初は国文学専攻でしたが、19世紀のフランス小説が好きだったたこともあり仏文学専攻に移籍。3年時からは永井ゼミや宮林ゼミに所属し、デュラスやロートレアモンを読解したり、現代思想に手を出したりしながら、それらしく過ごしました。しかしながら仏語は習得できず、ソフィーマルソーのようなパリジェンヌと恋に落ちるという密かな夢は夢のままに終わりました。

学生当時はバブル後半で、田町駅にはジュリアナ東京へ向かうボディコン姿の女性達の姿がありました。田舎者にはまばゆい存在で近寄り難く、私は専ら新宿や下北沢で映画や演劇鑑賞に明け暮れていました。大学周辺や高田馬場で徹夜で麻雀をして、早朝の電車で帰宅することもしばしばでした。

サークルは三田文学塾生会というシブい文芸サークルに在籍していましたがほぼ幽霊部員で、友人のサークルにお邪魔して遊んだり飲んだりしていました。幼稚舎から進学してきた学生の家はお金持ちが多く、広尾に住む女子学生の持ちビル兼自宅にクラス全員が招かれ、パーティー専用のフロアで懇親会をしたこともありました。「天は人の上に人を造らず」とは一体何なのかと思い知らされましたが、「美味しい日本酒がある」と言われ、高知のお酒が出てきた時は誇らしかったです。

学生生活の間、銀座風月堂という喫茶店でアルバイトをしたことは懐かしい思い出の一つです。他大学の学生達から60代までのホールスタッフや和菓子職人など計30人程がいる家庭的な店でした。日曜日には店長と競馬予想しては近くの場外売り場で馬券を購入し、バイト代がそっくり消えてしまうことも再三ありました。店頭に並ぶ四季折々の和菓子はバンカラな私にとっても美しく感じられ、今でも県内の和菓子店に足を運びます。

就職活動時はバブル崩壊と重なり、出版業界も採用枠が減少し、それなら故郷で映像や音楽も使って表現できる仕事に就きたいと思い、高知放送を志望し就職することができました。入社以来、テレビの情報番組とニュースの現場を行き来し、日本テレビにも1年半出向させてもらいました。またラジオでも2年間番組作りに携わり、この上ないマスコミ人生を送らせて頂いています。

入社1年目沖縄取材

入社5年目番組制作現場

一方、私生活では47歳で良縁が訪れ、50歳を過ぎた今年4月、初子となる長女に恵まれました。5月には周囲の温かい理解を得て、高知放送の男性社員として初めて育児休暇を取得しました。今にして思えば学生時代にパリジェンヌと恋に落ちなくて何よりでした。

娘が20歳になる頃までは老体に鞭打って頑張らねばなりません。ペンは剣よりも強しの精神で、目下の新型コロナ対策は勿論、人口減少や南海トラフ地震対策など高知県が抱える課題を放送局の立場から見つめ、さまざまな情報を発信していければと思います。お力添え頂ければ幸いです。

次のバトンは、同業他社ながら県内のテレビの顔として希望の星であるテレビ高知の三上萌々アナウンサーにつなぎます。

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