野村 あゆみ(のむら あゆみ)さん(2006年文卒)

 土佐の教育界の大先輩、谷智子さんから華々しいバトンを引き継ぎ、寄稿させていただくことなりました、野村あゆみと申します。2006年文学部卒、現在は、土佐女子中学・高等学校の国語科の教員をしています。この度は、貴重な機会を賜りまして、誠にありがとうございます。甚だ僭越ではございますが、以下5つの忘れがたいフレーズとともに自身の半生を振り返ってみたいと思います。

 

Phrase1「気は心」

 幼少時の心象風景を物語る言葉として、真っ先に思い浮かぶものです。祖母と時間をともにすることが多かった私は、幾度となく、この「気は心」という言葉を耳にしてきました。幼な心では理解しきれなかったものの、真心をつくすこと、の大切さを教わっていたという記憶は、あたたかな感覚とともに今でも鮮やかに蘇ります。損か得かという指標ではなく、誠心に従って自分の思いを形にして表すことを、祖母の姿から学びました。愛に形はないけれど、愛情を形にあらわすことはできる。

90歳を超えた現在も、祖母のあり方は何ら変わりません。しているはずが、されている。周囲をそんな気持ちにさせてしまう祖母の魅力に、ノックアウトされない人はいないと私は、豪語します。かつて教師であった、そんな祖母の背中を、今でもずっと追い続けています。

 

Phrase2「こんな紙切れ1枚で、この子の価値は決まらん。」

 小学6年生の秋。土佐女子中学校の受験を決めてからも私の成績はいっこうに上がりませんでした。特に算数の文章題は、もはや悪意の塊としか思えませんでした。敵前逃亡が日常茶飯事で、どうせ考えても分からない、と諦め続ける日々。そんな最中に届いた模擬試験の結果は…。言うまでもありません。そこには、当然、母は激昂し、私は泣きじゃくり、リビングはまさに目も当てられない状況でした。

 そんな中、救世主が現れました。父でした。父は、例の「紙切れ」を手にしたとたん、それをビリビリに破り、Phraseを放ったのでした。大砲でした。それが、向かった先は、私の弱い心でした。このとてつもない愛の塊が、それまでどんなに叱られても湧いてこなかったはずの勇気をいっせいに芽吹かせました。その後、私は無事、憧れの土佐女子の門をくぐることを許されました。満面の笑みとともに。

中学3年生 留学生とともに
中学3年生 留学生とともに

 

Phrase3「slow but steady」

 そんなこんなで、私は青春時代を「水を得た魚」のごとく過ごしました。周囲の支えのお陰で、多くの挑戦とそれに付随する葛藤と実りを、まるごと体感できたのだと思います。

このPhrase3は、その充実した日々の中で、最もよく耳にした言葉だ、と言っても過言ではないでしょう。この後には、「背筋伸ばして颯爽と、スマイルスマイルにっこりあいさつ」という言葉が続きます。私の在学当時の、校長先生の訓話の中で発せられていたものです。最初は、何気なく聞いているだけでしたが、いつのまにか私の御守りがわりとなっていました。生徒会役員の立候補演説、演劇部員として初めて立った舞台から最後の舞台まで、アメリカへのショートステイ候補者の集う面接場で…。様々な真剣勝負の時を支えてくれた忘れがたい言葉です。

慶應の受験時にも、人という字を書いて飲み込む代わりに、この言葉を何度も唱えました。試験当日。最後の文字をしたためた後の、私の心は得も言われぬ達成感に満たされていました。これは、試験直後に父とかわした、電話での会話の内容です。

 

「お父さん、私受かった気がする」

私は、もちろん、鼻息荒めにこう言いました。

「慶應、なめたらいかんで」

愛の塊は、すかさず、こう言い放ちました。

 

…しかし、私は、このとき、この牽制球をものともしませんでした。そればかりか、試験直後の、あの高揚感は確信にむかって、ただただまっすぐに成長していったのです。

今でも、私の合格は、「slow but steady」のおまじないの連続が紡いだ奇跡であったと確信しています。

入学式にて
🌸入学式にて

Phrase4「で?」

 大学時代の語りつくせぬ学びの中に鎮座する、生涯忘れない、自戒の言葉です。

 1,2年は矢のごとくに過ぎていきました。学ぶことの愉しさや、学問の奥深さに触れるうち気が付けば哲学に興味をもっていました。そのため、大学3、4年生、大学院時代と、舟山俊明先生のゼミに在籍し、教育哲学を専攻しました。そのゼミの中で、私は始終、おろかな未熟者であったろうと思います。言葉を尽くしに尽くした(であろう)プレゼンをし、やっと着地点に落ち着いたと安堵する度に、この「で?」は、舟山先生から容赦なく飛んできました。終わりなき問答。否、終わりなき問〇です。周囲からの視線を一心に浴びながら、私は何度も言葉を詰まらせ、しどろもどろになりました。羞恥心と焦りのあまり、その場から消えてしまいたくなることもしばしばでした。

にもかかわらず、その干からびた胸中にはなぜだか常に、そのような問いがあるのか、という発見のよろこびがありました。そしてそのよろこびはどんな苦境においても、尽きることはありませんでした。私たちは、様々な事象について、「何も知らないということを知る(自覚する)」必要がある。自問自答、他問自答を積極的に人生に取り入れること。この厳しくも愛おしいループを絶やさず学び続けること、を肝に銘じ続けた学生時代でした。いや、しかし、私にとって学ぶことは、もはや格闘技でした。しかも、制限時間なしの。

そんな日々にも、ようやくタイムリミットがやってきました。そうしてじたばたしているうち、私は、またもや奇跡的に修士課程を終えました。

 

「無知の知」=「で?」

 

これが、私が慶應で見つけた最も尊い公式です。 

 

Phrase5「できない理由を探すより、できる可能性を探ろう」

 ご縁をいただき、現在は母校で勤務しています。

この言葉は、初担任をしたクラスの教室の黒板の後ろに書いていた言葉です。「できない理由」を探しがちな自分への戒めであり、思春期の只中で、人と比べて自信をなくしてしまいがちな生徒たちに送り続けていたエールでもあります。以来ずっと、生徒たちに関わる際に、思い起こしています。私が、教師として生徒たちに直接関われるのは、3年間ないし6年間という彼女たちの人生のうちのほんの一部です。しかし、その刹那ともいうべき青春には、彼女たちの過去と現在と未来が詰まっています。かけがえのない一瞬は、言葉との出会いによって大きく変わると、私は信じています。日々の教育活動において、集団と同時に、一人ひとりをしっかりとみることは、至難の業です。ですが、私はそのことを志向し続けることを諦めた教育に価値はないと思っています。そのため、これからも難しいから面白く、終わりがないからこそ愉しいという原点を見喪わずにいたいです。

 

…とは言いつつも、実際の日々はと言えば、試行錯誤と愚行、後悔と反省の連続です。

 

その度に、教鞭という名の鞭を振りかざすことは、無知を自覚しない者の愚行にほかならない。鞭を使うべきは、気付けば傲慢になってしまいがちな、教師である私自身に向けられるべきだ。今日の私、今の私の言動はどうだっただろうか。生徒の言動は常に、私を問いへと引き戻してくれます。こうして他問自答を繰り返すチャンスを与えてくれている生徒たちへの感謝の気持ちをこれからも大切にしたいと思います。

知ることは覚えることではなく探すことだ、と最近よく感じます。知るの先にあるのは、「わかる」ではなく、むしろ「わからない」だ、とも。わからないことが、次の、知りたいに繋がり、いろんな可能性を発見するのだとすれば、私は生徒たちとともに、胸を張って、わからないことを全力で探す大人であり続けたいと思います。「わかった」をゴールにするつもりは、今も、これからも、ありません。

 

 以上、5つのPhraseとともに半生を振り返りました。そして今、改めて、最も現在の志を支えているのは、愚昧ながらも懸命にもがいていた頃の、慶應でのあの濃密な学びの経験だったと感じています。そこには、たくさんの人や言葉との出会いがありました。そうやって私は、知らなかった自分に幾度となく出会わせていただきました。点から線、線から面、平面から立体…。今後も新たな発見を求めて、「たの(愉)くる(苦)しい」毎日を、坦々と歩んでいきたいと思っています。

次は、江戸時代から続く老舗「西川屋」さんの池田真浩さんにお繋ぎ致します。よろしくお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA